玉川山 常光寺
じょうこうじ
物件情報
Property information
・寺院の由来
歴史は古く天文七年(1538年)、越後出身の泉蔵院日礼上人に宇奈根村の旧青山氏が帰依し、多摩川沿いの山紫水明の地に当寺を建立したと伝えられています。
寛文四年(1664年)第三世住職日栓上人は亡くなるが、それまでに隣の大蔵村より頼まれて妙法寺の開山となっている。寛文五年(1665年)ごろから幕府の不受不施派に対する弾圧が続き、村内の檀家すべてが村内の観音寺(天台宗)へ宗旨替えされた。ただ遠方であった烏山の高橋姓他の檀家のみが、従来通りの檀家を続け現在までの法燈を持続できたとの寺伝があります。
当寺には、近隣の大名、喜多見氏の遺品があったのですが、昭和二十年五月二十五日(1945年)の大空襲によって焼失した。
地名にもなっている喜多見氏一族、古くは江戸の開祖として太田道灌にさかのぼること三百年前の十二世紀より、江戸氏を名乗り大手町周辺を居館を構えていたが、太田氏に江戸城を譲った際に喜多見姓を名乗った。
若狭守重政は、五代将軍綱吉の側用人として生類憐みの令での活躍が目立ち、二万石の大名に取り立てられていたが、一族喜多見重治氏の刀傷事件で不興を招き、「取締不届き」と咎められお家断絶の憂き目に会っている。
現本堂は、昭和四十六年四月(1971年)落慶になる近代風の建造物です。
歴史は古く天文七年(1538年)、越後出身の泉蔵院日礼上人に宇奈根村の旧青山氏が帰依し、多摩川沿いの山紫水明の地に当寺を建立したと伝えられています。
寛文四年(1664年)第三世住職日栓上人は亡くなるが、それまでに隣の大蔵村より頼まれて妙法寺の開山となっている。寛文五年(1665年)ごろから幕府の不受不施派に対する弾圧が続き、村内の檀家すべてが村内の観音寺(天台宗)へ宗旨替えされた。ただ遠方であった烏山の高橋姓他の檀家のみが、従来通りの檀家を続け現在までの法燈を持続できたとの寺伝があります。
当寺には、近隣の大名、喜多見氏の遺品があったのですが、昭和二十年五月二十五日(1945年)の大空襲によって焼失した。
地名にもなっている喜多見氏一族、古くは江戸の開祖として太田道灌にさかのぼること三百年前の十二世紀より、江戸氏を名乗り大手町周辺を居館を構えていたが、太田氏に江戸城を譲った際に喜多見姓を名乗った。
若狭守重政は、五代将軍綱吉の側用人として生類憐みの令での活躍が目立ち、二万石の大名に取り立てられていたが、一族喜多見重治氏の刀傷事件で不興を招き、「取締不届き」と咎められお家断絶の憂き目に会っている。
現本堂は、昭和四十六年四月(1971年)落慶になる近代風の建造物です。