妙祐山 幸龍寺(寺町聖苑)
こうりゅうじ てらまちせいえん
物件情報
Property information
・寺院の由来
徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579年)四月、後の二代将軍秀忠公が誕生した。
この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、
家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、玄龍院日祥聖人を開山に招き、
徳川家祈願寺に定めたのが當山の開創起源である。
これより家康公は駿府、江戸と本拠地の変わるたびに當山を伴い移転している。
二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を當山に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると、
仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納した。
徳川家康公がいまだ浜松城主で在った天正七年(1579年)四月、後の二代将軍秀忠公が誕生した。
この時、乳母大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は秀忠公の為に一宇の建立を請願、
家康公は奨めを入れ城外に伽藍を調え、玄龍院日祥聖人を開山に招き、
徳川家祈願寺に定めたのが當山の開創起源である。
これより家康公は駿府、江戸と本拠地の変わるたびに當山を伴い移転している。
二代将軍秀忠公は継嗣出生安産祈願を當山に命じ、無事に後の三代将軍家光公の誕生を見ると、
仏舎利を奉遷の上、鬼子母神十羅刹女を造像奉納した。