2022.02.28
人は何をきっかけに自分の死を意識するのか
目次
自分の死と向き合う女子中学生
死んだら、どうなるんだろう——ある女子中学生(13歳)の死に対する考えが全国紙の投稿欄に掲載されていました。「意識も心もすべて消えてしまうとしたら、底なし沼に沈むような恐怖に襲われる」。しかし、それが「生き物すべての宿命」であるなら「この命を何かのために、だれかのために使い切りたい」「死ぬ時、十分頑張ったと思えるような人生にしたい」とのこと。13歳でこれだけしっかりした立派な考えを持っていることに感銘を受けました。すると後日、その記事を読んだ別の読者の感想が掲載されました。「宗教が説くあの世や来世などを信じて安心を得るのもひとつの方法」「先人の死をめぐる思索を、書物や芸術作品、映画などで知ることができる」(50歳、無職女性)、「どのように亡くなったかより、どのように生きたかが大事」「あなたが輝く生き方を見つけて欲しい」(73歳、主婦)というものでした。
死に対する私自身の記憶を辿ってみると
私自身、いつ死について考えるようになったのか、記憶を辿ってみました。人の死に初めて接したのは、確か小学校低学年の頃だと思います。それは夏休みの間に交通事故で亡くなった同級生の男の子で、その子とは数回話をした程度で特別親しい間柄ではなかったのですが、今でも自動車で事故現場を通ると、彼の顔が時々蘇ってきます(それが生前に目にした実像なのか、遺影なのかは定かでありません)。また死んだ人(ご遺体)を初めて目にしたのは親戚のお爺さんのお葬式で、それもやはり小学生の時でした。出棺の際、棺の上に魔除けの守り刀を置いて、石で棺に釘を打つ所作を見た記憶があります。
まさに今、死の恐怖に直面しているウクライナ市民
人以外では、幼少期に飼っていたネコや昆虫、金魚、鳥、両生類などの死に接していますが、それに対する悲哀はあるものの、上記の投稿者のように自分の死について深く考えたことはありませんでした(能天気に暮らしていたか、無意識のうちに思考を停止させたのかも知れません)。明確に意識したのは、社会人になって直面した母や友人の死だった気がします。まさに今、戦時下にあるウクライナ市民は「自分や大切な人が死ぬかも知れない」という恐怖に直面しています。彼らに一日も早く平穏な暮らしが戻ることをお祈りしています。