2025.08.20
戦後80年、戦争遺跡(遺構)から学ぶ
目次
全国に多数存在する戦争遺跡(遺構)
今年は戦後80年ということで、前回に続いて戦争にまつわる話題をもう一つ紹介しましょう。本コラムの筆者は1965(昭和40)年生まれの戦後世代ですが、子供の頃、母が戦時中(幼少期)に宮城県仙台市の秋保温泉(旅館名は佐勘)に疎開した話をしてくれたことは今でも覚えています。地方に行くと、戦時中に防空壕として使われた洞穴が今なお裏山などに残っていることもあります。広島の原爆ドームは、原爆投下による惨状と平和を訴える記念碑としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されていますが、他にも戦争遺跡(遺構)は全国に多数存在します(戦争遺跡保存全国ネットワークHPに戦争遺跡の指定・登録文化財の一覧ファイルあり)。
政府中枢の移転先に選ばれた「松代大本営」
長野市郊外の松代町にある「松代象山地下壕」もその一つです。第二次世界大戦末期、同町にある3つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に、善光寺平一帯(約20㎞四方)に巨大地下壕(坑道)が造られました。敗色濃厚だった当時、本土決戦の最後の拠点として、政府中枢、大本営及び天皇御座所を極秘に移転させる計画のもと、昭和19(1944)年11月から翌年の終戦の日まで、約9ヵ月にわたる突貫工事により全工程の約8割が完成。山を碁盤の目のように掘り抜いた地下壕は、延べ10㎞余りの長さに及び、その一部(約500m=写真上は公開部分の最奥)が1989(平成元)年より公開されています。多くの労働者が強制的に動員され、当時の金額で1億円とも2億円(現在の金額で約200億~400億円)とも言われる建設費が投じられました。坑道内は素掘りの状態で、岩に突き刺さった削岩用ロッドやそのロッド痕、ズリを運んだトロッコの枕木跡などを見ることができます(少し離れた舞鶴山の麓にある松代地震観測所には、当時の天皇御座所予定地があり、窓越しに見学できる)。
犠牲となった朝鮮人労働者を追悼する祈念碑も
本工事の主力要員は、その数6,000人とも言われる朝鮮人労働者でした(犠牲者は100~300名と推定されるが、氏名が判明しているのは4名のみ)。地下壕の入り口近くには、朝鮮人犠牲者を追悼する平和祈念碑があり、また隣接する恵明寺の墓地には、日本名・中野次郎氏(本名不明)の供養塔も建立されています。これら石造物も「負の遺産(教訓、戒め)」として長く残さなければならないものです。